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たんたんの ストレンジャー ザン パラダイス 23

~聖地をめぐるとても個人的な記憶 ~ Vol.23

 海を越えてやってきた呉の民の源流へ1

ずっと、ここのところ海外での体験を書き綴っています。

10代になりたてのころにはじめて、海外へ旅をしてから、
40代前半まであちこち旅をしてきてました。

いろいろな国を巡るうちに、魂が震えるような懐かしさを感じる国と、
まったくそうではない国に感覚的な受け取り方がわかれるのがよくわかってきました。

そして、そのような魂の震える国では、かならずといっていいほど、
過去生のビジョン、そして記憶を取り戻す…という経験をしてきました。

その頃から、私の意識のなかでは、魂にとって人生というのは、
今生一回きりの体験ではないということに対して確信をもつようになってきました。

わたしにとって、とても縁が深い国はまだまだたくさんあるとおもいます。
なにしろ、地球上ではまだ今生で行っていない場所が無数にあるからです。

しかし、現時点で私にとって、懐かしき場所は、なんといっても前回まで書き綴った
スペイン、そしてフランス、イギリス、イタリア…そしてなんといっても中国大陸です。

中国といっても広大なので、どのありたかというと、現在の江蘇省 蘇州市から上海、
そして香港のあたりです。

はじめて香港へ行ったのは、10代の終わりあたりだったとおもいます。
そ の当時はまだ英国領で、混沌とした植民地の金融都市のエネルギーと大陸の
圧倒的な歴史の重厚さがないまぜになっていて、あっというまに私はそのエネルギー に
魅了されました。
香港については、いろいろと思い出があるので近いうちにその記憶を手繰り寄せて
書き綴りたいと思っていますが、今回は、まず蘇州での体験について書います。

なにしろ、蘇州での記憶は現在、福岡県糸島市に移住したその大本になる流れだからです。

蘇州を訪れたのは2013年の秋だったとおもいます。

その前年に福岡へ家族が移住し、糸島半島の突端に住まいを定めたことで、
一気に大陸での記憶がよみがえってきたのが旅のきっかけでした。

なぜ、糸島に住みだしたことで、大陸の記憶がよみがえってきたのか…。

それは糸島という土地が、古代日本の政治的中心地であり、同時に海の向こうの
いくつもの王国からの情報、モノ、そして人の出入り口、ゲートだったからです。

糸島は、邪馬台国のあった場所であるといわれ、伊都国として当時の中国大陸の
いくつもの王国と交流をもっていました。

伊都国のあった糸島市の伊都国の王墓だったといわれている平原遺跡から出土した
国内最大の銅鏡「変形内行花文八葉鏡」(直径46・5センチ)は、
糸島市の平原(ひらばる)遺跡・1号墓から出土したもので、鏡だけで42面も出土し、
そのほかにもガラス勾玉(まがたま)、メノウ管玉(くだたま)、連玉886点、
丸玉500点ほか多数の副葬品(鏡だけ42面で多数の女性用副葬品が発掘され、
とくに多数の女性用副葬品が発掘されたことから巫女的な女王の墓と考えられています。

この銅鏡「変形内行花文八葉鏡」が当時の中国の王から卑弥呼へ贈られたものである
といわれていることから、伊都国の女王は卑弥呼であり、この地が邪馬台国で
あったであろうと論ぜられる根拠となっています。

しかし、わたしの思い出した記憶はそれよりもさらに古代の時代、
中国の春秋時代あたりの記憶でした。

資料を調べると次のように書かれています。
こちらのサイト http://www.iokikai.or.jp/kodai.sosyuu.html
から引用させていただきました。
とても充実した情報が掲載されています。

呉は、周の古公亶父(ここうたんぽ)の長子太白と次子虞仲(ぐちょく)により紀元前12世紀に
長江流域に建国され、国号を句呉(後に呉)と称した。

呉は、周の滅亡後、紀元前585年~473年春秋時代に存在した国で、6代王闔閭(こうりょ)が
現在の蘇州に都を置き長江付近を支配し、中国最強の国となり、繁栄した。しかし隣国の
越により滅ぼされた。以後戦国時代を経て、紀元前221年秦により中国全土が統一された。

紀元前6、5世紀に鉄器時代が始まったと言われるが、当時の製鉄技術では、農具などには
使われたものの武器に使える強度では無かった。呉や越が強かった理由 は、呉越地方で
鉄製の剣や矛が作られ威力を発揮したからと云われている。
また呉軍には兵法で有名な孫子(彼を知り己を知れば百戦殆うからず 。その疾きこと風の如く、
その徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し等、、)がいた。

この時代は、諸家百家と言われた数々の思想家が輩出した。中でも儒家思想を樹立した
孔子(紀元前551~479年)、孔子の思想を集めた論語が編纂され、その根本思想である
『仁(思 いやりの心)』は、国家権力と結合して我々日本人にも普及し、心に定着した。
呉の人々の武を重んじる気風から、儒教や道鏡の精神が文教重視に変化し、学問 教養を
育む気風に変わっていった。
またこの時代に呉の国には、世界遺産になっている美しい庭園がたくさん出来た。また米、
絹織物や刺繍等が大量に生産され た。

 『臥薪嘗胆』呉の6代王闔閭が越に殺された後、闔閭の子、夫差は薪の上に寝て復讐心を
忘れなかった。そして夫差は越に攻め込み越王勾践を討 つ。
許されて越に帰国した越王勾践は苦い胆を嘗めることで屈辱を忘れないようにした(嘗胆)。
そして越王勾践は満を持して呉に攻め込み、夫差の軍を大破し た。
この故事から生まれた、復讐の為に耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという
意味を持つ。

 『呉越同舟』は呉と越の激しいライバル争いから生まれた言葉。

②もう一つの呉の国は、後漢が滅びた後、222年~280年三国時代(魏、呉、蜀)に存在した
長江(揚子江)流域の国で、首都は建業(今の南京付近)を都 とした。
この時代に仏教が伝来して民衆に普及した。蔡倫による製紙技術が改良され、文学書物が
伝播された。しかし279年晋は30万の大軍を繰り出して呉 へ侵攻してきた。呉の兵士たちは
残虐な孫晧を見切り戦わずして晋に下るものも多く、翌280年3月に建業を包囲されて
孫晧は降伏、呉は滅亡した。
この呉の 国の人々が大勢日本へ渡来したと言われている。

日本人のルーツ

新人類(ホモサピエンス)は世界中へ広がり、4~3万 年前に日本列島にやって来た。
縄文時代(1万年から紀元前4世紀頃)には、現在の日本の地形が形成され、温暖多湿な
モンスーン気候が日本をおおった。縄文人は農耕や放牧を持たない採集経済のもとで
定住生活を送っていた。
縄文人が住む倭国(大宝律令施行直前の701年に国号が倭・倭国から日本へ改められた。
新唐書、旧唐書に「倭という名称をきらって日本へ改称した」という記述がある。)へ大陸から
東シナ海ルートと朝鮮ルートを通って、渡来系弥生人が九州北部 に渡って来た。
弥生人は日本各地に広がり、縄文人と戦いまた一部は混血していった。(倭国大乱、蝦夷征伐、
熊襲征伐、隼人征伐、アメリカインデアン、イン カ帝国など殆が戦いによる縄文人の死亡で集結している)

①紀元前585年~473年蘇州に都を置いて繁栄を極めた呉は、隣国の越により滅ぼされ た。
当時のルールでは、敗戦民は殺されるか奴隷にされた。また世は春秋戦国時代であり、
呉の人々は、混乱と戦災を避けて縄文時代の終わり、約2600年前 頃より、倭の国に渡って来た。
考古学的調査により、彼らが最初に水稲と金属器、絹や綿製品も持ち込んたことが確認されている。

②222年~280年長江(揚子江)流域の建業(今の南京付近)に都を置いた呉は、
晋の30万の大軍により包囲され、滅亡した。この呉の国の人々が大勢日本へ渡来し、稲作と鉄器、
織物を伝えた第2波であった。

季節風が夏には中国から日本へと吹いている。呉の人達は、この季節風を利用して、また黒潮、
対馬海流(7.2Km/h)に乗って、北九州や山口県に容易に辿り着くことが出来た。

渡来人は、大和王国作りを助け、大化の改新後は縄文人である『蝦夷』征伐、熊襲征伐などを
繰りかえし、滅ぼして行く。渡来系弥生人の影響が少なかった北海道と沖縄では、それぞれ
アイヌと琉球人が縄文人の姿形を色濃く残しながら、独自の文化を築き、その結果、いま、
日本列島には、アイヌ・本土人・琉球人とい う三つの民族集団が住んでいる。

水の都蘇州(すうそう)は、最も早期の名称は『呉』と呼ばれて、この土地を呉地、人を呉人と
呼ばれてい た。 紀元前514年に呉王闔閭(こうりょ)が周囲25Kmの城壁を築いて
都としたことに始まる。
589年隋により『蘇州』と、1113年には『平江府』 と改称された。宋代(960~1278年)には
刺しゅうと錦織も発達した。元代(1279~1367年)にはマルコポーロがここを訪れ、
その美しさを絶賛 している。そして明代(1368~1662年)には100万都市として世界有数の
都市になった。

緯度は鹿児島市とほぼ同じで暖かく、西には太湖 が豊な水をたたえ、北には中国の
大河長江が東へと流れている。町は外城河という運河に囲まれ、いたるところに細かい運河が
網の目のように走っている。その運河の上には眼鏡の形をした太鼓橋がかかり、その下を
荷物を積んだ小船が行き来している。その美しさは東洋のベニスと称えれている。
古来より『蘇湖熟、天 下足(蘇州や湖州の作物が豊なら、中国全土の食料をまかなえる)』とか、
『天有天堂、下有蘇杭州(天上には極楽が有るが、地には蘇州と杭州がある)』と称 えられてきた。

稲作は中国の長江中、下流域で1万1千年前に栽培が始まった。日本には2500年前に
蘇州(中国中南部)から直接渡来したと言う説が最近のDNA研究で確認されている。

また絹織物と刺繍が盛んである。中国では5千年以上前に既に蚕を利用し始めている。
夏の時代には既に絹製や麻製の衣装が作られ、朱砂が染料として用いられ ていた。

①呉の時代には、紡績は社会の主要な生産様式に留まらず、国家への納税品(銭納から絹納)と
なっていた。この時代の刺繍、織のレベルはかなり高いものになっていた。

②の呉の時代は、絹の生産量は著しく増加し、種類も多様化し、色彩も豊で絹織物はこの時代に
ほぼ完成された。蘇州刺繍の発祥は2千数百 年前の呉の時代から作られている。

渡来人とは、外国から渡って来た人を指すが、狭義には古代日本に朝鮮半島や中国大陸から
渡来して帰化し、文化や技術を伝えた人々を指す。

渡来人の移住の波は3波に渡った。

①縄文時代末期~弥生前期(紀元前600~400年前頃)より中国の長江(揚子江)流域の呉から、
春秋時代やその後の戦 国時代にかけての混乱と戦災を避けて日本に渡って来て、
日本に水稲、金属器、衣類を持ち込んだ。徐福伝説もある。試論日本人の起源もある。

②3世紀~4世紀、三国時代(魏、呉、蜀)の呉の国が滅びた後再度、呉から、三国時代の
混乱と戦災を避けて日本に渡って来て、日本に水稲、金属器、衣類を持ち込んだ。

③5 世紀以降は、呉の国よりも、562年任那(みまな)からの撤退や660年百済の滅亡を期に
朝鮮半島にからの移民が増え、亡命貴族も多数渡来するなど、さらに古墳時代には
大和王権を仕える技術集団として沢山の人々が渡来した。渡来人の数は100万人(年間1千人)
であったとの推計もある。

大和王国に仕えた渡来人としては、王仁の子孫とされる西文氏。最後の百済王義慈王の
王子の禅広は持統天皇より百済王氏姓を賜って、百済系氏族の長的存在となる。
漢氏は、応神天皇(270 年~310年)の頃、阿知使主(あちのおみ)が引き連れて帰化した
人々の子孫であると言われている。
阿知使主は後漢の霊帝の曾孫で、魏の初頭に一族及び 17姓、17県の男女を連れて
帯方郡(204年の今のソウル)に移住していたが、帰化して大和に住み着き、繁栄して摂津、
近江、三河、播磨、阿波などの諸 国へ発展して行った。
秦氏は、秦の始皇帝の子孫と称する弓月君が120県の人民を引連て、朝鮮に移り、大和王権に
招かれて帰化したと言われている。
秦氏一 族の数は、雄略天皇の頃には18,670人と言われ、養蚕、絹織を業としていた。
また渡来人の子孫には、鞍作鳥(止利仏師)、僧行基、国中公麻呂(大仏造 立した)、
高野新笠(桓武天皇の母)、坂上田村麻呂(征夷大将軍)、最澄らがいる。
5世紀後半以後の渡来人は、仏像製作、文字、暦法、儒教、高級織物技 術、金属工芸、
製鉄技術、馬の飼養と乗馬、須恵器、土木技術、麦栽培などを日本列島にもたらした。
渡来人の活動の上に飛鳥文化が花開き、天平文化へと発展 する。

渡来人は、縄文人と戦い、金属器を持たない熊襲、蝦夷、隼人などを次々に征服していった。
そして現在の日本人が形成されていった。

追加
日本書記にも帰化人と言う言葉を使っている。かっては帰化人という呼名が主流であったが、
戦後に『帰化』には日本中心的なニュアンスがあるとして『渡来 人』の呼称が提唱され、
学会の主流となった。
『渡来』には単に渡ってやって来たという語義しかなく、倭国王の支配下に入ったという
意味合いを持たないため、やはり『帰化』を用いた方が適切だとする見解もある。
帰化人とは、『王の徳化をしたって帰従してきた人』と解釈されている。

上記の説に誰が反対をしたが為に、真実が伝わらなかったのだろうか?
3人の反対論者の意見が大きく歴史を動かしたと思われる。

 ①舎人親王(とねりしんのう)は、日本書紀を720年に編纂した。天皇の命を受け、神代から
持統天皇までの時代を扱い、朝廷支配の正当性を歴史によって説 明しようとする意図で作られた。
『天孫降臨』と言う神話が正当化されている。記述を手掛かりに把握出来る時代はせいぜい
6世紀以降に過ぎない。それ以前の事は中国の王朝の正史に記された記事を手掛かりに
考える以外にない。

②水戸光圀は、林羅山等の大和民族(倭人)を「呉の太伯の末裔である」とい う記述を発見して
憤慨した事と、日本こそが中華思想に基づく正統な国家であるとの認識の元に『大日本史』を
編纂した。
紀元前6、5世紀の呉の地方では、髪 を短を短く切る(素潜りをして魚を採るのに水の中で
邪魔にならないように)、刺青をする(模様をつけることで魚に対する威嚇となる)この二つの
風習があっ たと言われている。
倭に関する記述でも同じような風習を行っていること(魏志倭人伝によると、男は、大人も子供も、
皆顔に刺青をして体に文字を書いてい る。昔夏王朝の少康王の子は、会稽の領主にされたとき、
髪を切って、体に刺青をして、咬龍の害を避けた。今の倭人は、魚やはまぐりを捕るために
好んで潜っ たりするが、体に刺青をするのは大魚や水鳥を追払うための呪いとしている。
国によって体の刺青の模様が違う。身分によっても左に右に、あるいは大きく、小 さくと差がある。
一重の布を真ん中に穴をあけて首から通してこれを服とする)が見られ、これがもととなって、
中国や日本において、倭人は呉王太伯の子孫で あるとする説がある。
また呉の国の人々が日本に逃げて来たと言う説があり、林羅山などの儒学者に支持されていた。
縄文人は、仲間か敵かを見分けるために顔 に刺青をしていた思う。
当時の中国の地方でも刺青をしていたし、アイヌやインデアン、そして今でも奥地に住む民族は
顔に刺青をしていた。刺青は縄文人の特 徴の一つではないだろうか?

③明治末期以降の植民地政策により、中国や朝鮮の歴史が抹殺され、言語や文字の使用も
制限され、そして渡来説も発言出来なくなったと言われている。

              
呉服は、絹織物の盛んな長江(揚子江)流域の呉の国(現在の蘇州付近)ー春秋時代の
呉の国(紀元前585年~473年)、三国時代の呉の国(222 年~280年)ーが滅びて、
混乱と戦災を避けて日本に渡って来た人々が着ていた絹の服や呉の国の人から裁縫方法を
教わって作った服を呉服と日本人は呼ぶよ うになった。
絹でない普通の服を『着物』と呼んでいた。そして日本の気候と日本人のTPOに合った呉服に
発展して行くことになる。
当時の日本人の服装は、 布の真中に穴をあけ、腰の部分を紐で結んだ貫頭衣を着ていた。
庶民は麻、身分の高い人は絹を着ていた。
一方外国人(中国や朝鮮)は、倭人が着てる服を『倭 服』と呼んでいた。『倭』は侮蔑的な
意味が込められているので、日本人は高級感のある「『呉服』を好んで使っていた。
古墳時代(4~6世紀)は右前と左前 の両方の服装だったが、719年(養老3年)
詔勅「続日本紀」元正天皇2月3日の条に『初メテ天下ノ百姓ヲシテ襟ヲ右ニ令ム』が発布され、
以後日本では右 前に、そして道端で『のたれ死』の人を左前に衣を着せて死者と生者の区別をした。

明治になり、絹の規制が解除され日本各地に絹の紡績工場が設立 された。絹織物も縮緬、
お召し、銘仙など種類が増え、染色技術も発達し、呉服が人気を集めた。
しかし西洋から洋服が入って来ると、『洋服』に対して、絹で なくても今まで着ていた服を全て
『和服』と改めて認識されるようになった。
日本人自身も『倭服』でなく『和服』と呼び、軽蔑の念が無くなった。   

             
呉音。漢字の読み方には、音(おん)読みと訓(くん)読みがある。
訓読みは漢字の意味に沿った日本(大和)言葉を当てはめたものである。一方音読みは中国
で発音していた読み方で、2通りある。漢音(かんおん)と呉音(ごおん)である。呉音は、
漢音導入以前に日本に定着していた発音で、呉の国の発音で、やわ らかい響きする。
中国の3世紀魏、呉、蜀の3国時代の呉の国の言葉が直接倭国に入って来たのだろう、
また漢字を伝えたのは百済であると言われている。
6世 紀に百済から伝えられた仏教の経典は呉音によって読まれていた。律令用語にも呉音が
使われていた。
一方、漢音は、7,8世紀に遣唐使や留学僧によってもた らされた唐の長安の発音で、
ごつごつした感がある。793年桓武天皇は、遣唐使らの進言を入れて、今までの呉音を改め、
漢音を正式の字音とするよう勅命を 下した。それ以来、漢文はもとより公式の用語は漢音で
読まれるようになった。
しかし僧侶達は、呉音に慣れ親しんでいたので反発し、呉音に取って替わること は出来なかった。
江戸時代には儒教は漢音、仏教や和歌、国学は呉音が使い分けられていた。このために
現在の日本の音読みは、南の呉音と北の漢音が混在して 使われている。例えば、  

男…訓読み おとこ、呉音 なん(長男)、漢音 だん(男子)
女…訓読み おんな、呉音 にょ(女人、天女)、漢音 じょ(女子、淑女)

 

卑弥呼が女王として君臨した時代の呉は、222年~280年長江(揚子江)流域の
建業(今の南京付近)に都を置いた呉で、晋の30万の大軍により包囲され、滅亡した。
この呉の国の人々が大勢日本へ渡来し、稲作と鉄器、織物を伝えた第2波であったわけです。

わたしの記憶のなかの呉は、紀元前の蘇州に都を置き、隣国の越によって
滅ぼされたときのことで、まさにこの戦乱の終わりに、蘇州から海を命からがら日本海を渡り、
縄文人の暮らす糸島半島から志賀島あたりに上陸したのだとおもいます。

前置きが長くなりましたが、以上の歴史的背景を踏まえたうえで、
わたしが蘇州で体験した過去生の記憶を次回から書き綴ってまいりたいとおもいます。