LE GRAND BLEU by カーサロータス

たんたんの ストレンジャー ザン パラダイス 27

 ~聖地をめぐるとても個人的な記憶 ~ Vol.27 台湾 縄文センチメンタルジャーニー  1 27a スピリチュアルな世界にあたまのてっぺんからあしのつまさきまでどっぶり 浸かって13年。その間に訪れた、記憶に残っている無数の聖地での体験を かなりいいかげんな旅の記憶でつづったエッセイ。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 前回までの上海・蘇州の旅の翌年、わたしのサロンであるカーサロータスの社員(だった) 松本、足達とひとみ、息子のれおの5名で台湾への社員旅行を実施しました。 2013年の7月だから、まだ二年前のことですが、この二年のあいだに起こったことは もう濃密でいまではまったく状況も変わっています。 わたしもひとみもバースナンバー3 なので、とにかく常に変化しつづけている人生なのですが、 いや… ほんとうにすごい速度で変わり続けています。 話を戻しますが、2013年の台湾カーサロータス社員旅行は、4泊5日の日程で行われました。 わたし自身は台湾を旅するのは二回目。香港と並んで中華圏では大好きな国です。 私たち家族と足達は福岡空港から、松本は成田空港から台北国際空港へと向かいました。 七年ぶりの台北はとても熱いエナジーにあふれていました。 気温はもちろん熱いのですが、台北…台湾はとてもエネルギー的に熱いのです。 香港もとても熱い場所です。 まさに大地に巨大な龍脈が通っている地なのです。 この台北旅行が決まったそもそもの理由は、前の年の定例会議で わたしが最初に一泊か二泊で、福岡から至近の韓国の釜山へフェリーで行って、 チゲ鍋を食べてくる…というアイデアを伝えたところ、他の人たちから不評を買い、 じゃあ台北のほうが良いいうことになったのです。 しかし、台湾が行き先となったことでわたしのなかには、 とても大きなテーマがむくむくと頭をもたげてきたのです。 そのテーマとは…その当時もずっと研究しつづけていた出雲族、安曇族にまつわるもの… つまり『安曇族~出雲族…龍蛇族のルーツをめぐる旅』でした。 では出雲族、安曇族というテーマが亜熱帯の島国である台湾とつながるのか… 不思議におもうひともたくさんいらっしゃるとおもいます。 それは…わたしの研究では安曇族~出雲族のルーツとなる龍蛇族の祖先が レムリアの人々であり、同時に海人族だという流れがあったからなのです。 では、そもそも台湾とはどういった国なのか? ウィキで調べると… アジア大陸の東南沿海、太平洋の西岸に位置する島嶼(とうしょ)である。別称または美称としてフォルモサ(ポルトガル語: Formosa, 麗しの島)がある。また台湾という呼称にはいくつかの使われ方があり、その歴史や政治状況を反映して、 広義には地域または政治実体としての呼称としても用いられる。 オランダ統治時代、鄭氏政権時代、清朝統治時代、日本統治時代を経て、1945年10月15日に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が発した一般命令第1号に基いて中華民国軍が進駐し、同年10月25日以後は中華民国政府が実効支配している。 1949年10月1日の中華人民共和国成立に伴い瓦解した国民党が政府機能を台湾に移転してからは、中華民国政府の実効支配範囲とほぼ重複するため、国共内戦後の中華民国の通称としても用いられている。現在も中華民国と中華人民共和国の双方で係争中(台湾独立運動)である。   これが世界的にオーソライズされている台湾という場所の総合的な情報です。 他のアジア諸国と同様に西欧の植民地から大日本帝国の植民地となり、 共産主義による民族運動が勃興したことで、生まれた近代国家…という具体像が見てきます。 つまり、台湾は中国大陸での政治的民族的闘争により敗北した ひとつの共通する主義主張を持つグループが母国での迫害を逃れて 近隣の島嶼へ移住した、ということが言えます。 これは太古からずっと極東地域で繰り返されてきた民族移動の大パターンであり、 近代におけるアジアでのもっとも大きな民族移動のひとつであるでしょう。 日本における、大和政権の成立も同様のパターンで成立したものであり、 さらに日本国内においては、縄文原住民と渡来系民族の関係も このパターンから派生したものであるといこと。 それは私がいままで出雲族の流れを遡るようにして行ってきた旅のテーマであり、 その旅のなかで祟神さまたち、さまざまな名もなき民、 そして縄文由来の北海道でのアイヌの民、開拓民のエネルギーとつながったのも、 その民族移動の大パターンが生み出した怨嗟をどう開放するか、 というワークへとつながったわけです。 他のスタッフたちはそんなことは思ってもいなかったでしょうが、 今回の台湾の旅も私にとってはそれらの民族移動の大パターンが生み出した怨嗟を どう開放するか、という一連の巨大な流れのひとつとして含まれているわけです。 では、具体的などんな旅だったのか… その旅程のひとつひとつをこれから検証していきたいとおもいます。 まず宿泊したホテルからはじまります。 宿泊したのは、圓山大飯店…日本語表記だと円山大飯店となります。 ウィキによると、 円山大飯店(えんざん/まるやま-だいはんてん)は台湾台北市に位置する中国建築が特徴のホテル。剣潭公園に隣接し、台湾神宮の跡地に建設されており、台北のランドマークになっている。 円山大飯店に宿泊したのは、とくにオーダーしたわけではなく、 予算的な制限があって選ばれました。まあいつものように、偶然というか、 シンクロで決まったホテルでした。 そのホテルが台湾神宮の跡地に建てられたものという情報は もちろん旅に行く前はわかっていませんでした。 行ってから気付いて、びっくり。 台湾神宮が鎮座していた剣潭山。 その場所にわざわざ建てられた円山大飯店。 その台湾神宮ですが…日本植民地時代、台湾は宗教も言語も日本による管理となりました。 もうとても少なくなりましたが、高齢の台湾の人たちは流暢な日本語を話せます。 つまり当時の台湾の人々は日本語をしゃべるように強制され、 神道の神々を崇めるように指導されていたのです。 その大元が台湾神宮なのです。 そこで台湾神宮を調べてみると… もう見事としかいいようのないほどの流れになってきました。 主祭神は、北白川宮能久親王…そして開拓三神~大国魂命・大己貴命・少彦名命。 つまりここで、大国主命が登場です。これは北海道と同じ構図となります。 ということはどういうことか…。 北海道神宮での図式が、原住民のアイヌ、開拓民に対する祟神としての 大国主というものでした。 これをそのまま台湾神宮に当てはめると、原住民であるオーストロネシアのさまざまな種族、 17世紀に清朝との戦いに敗れて大陸から移動した漢民族、 その漢民族を完全に倒してはじまった清朝統治時代 の清の人々、 さらに日本開拓民に対する祟神ということになります。 九州よりひとまわり小さい島でこれだけの民族の流入が行われてきたということに まず驚きますが、それにもまして、その民族の怨嗟の歴史に大国主が関わっているという ことにさらに私は驚きました。 加えていまはなき台湾神宮の跡地のホテル…大陸から逃避してきた大陸の王が立てた お城に宿泊するという流れにも驚いたのです。   27b ではまずその円山大飯店と、その豪壮な宮殿のようなホテルを建てた 蒋介石について書いてみます。 円山大飯店は、そもそも蒋 介石(しょう かいせき)が宋美齢夫人へのプレゼントとして 建設された中華民国の迎賓館としての建物でした。 まず蒋 介石についての情報を掲載します。 蒋 介石(しょう かいせき、1887年10月31日~1975年4月5日)とは、中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統、中国国民党総裁。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は特級上将(大元帥に相当)。孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。1928年から1931年と、1943年から1975年に死去するまで国家元首の地位にあった。しかし、国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949年より台湾に移り、大陸支配を回復することなく没した。 そして圓山大飯店についての情報…。 台湾にある「圓山大飯店」。1952年、台湾神社の跡地に作られる事になった迎賓館だ。 創業者は、蒋介石の妻、宋美齢。共産党との内戦に敗れた宋美齢と蒋介石の夫婦は、中国大陸から逃れ、台湾で臨時政府を開いた。このホテルには、中華民国の威信を世界にアピールする目的があったのだ。真っ赤な柱に、金色の瓦という中国建築にこだわって建設された。 ということ。 なんだか…中国大陸からのがれ、あらたな国をつくろうした 王・蒋介石と王妃・宋美齢の愛と悲しみから生まれたホテル… という感じですね。 そんな台湾の歴史の縮図のようなグランドホテルに 宿泊してまず強く感じたのは、建物としての文化的価値の高さと 剣潭山エリア一帯から渦となって 立ち上るような高圧的なアースパワーエネルギーでした。 ホテル内はだだっ広くて、経済的という言葉とはもっともかけ離れている 「王族的豊かさ」に満ちていました。 したがって、本来ならば、薄暗い廊下などは空虚な気が漂うはずなのですが、 いるだけで全身が圧迫されているような強い気に満ちています。 インテリアは壮麗で、中国の伝統的な空間様式と装飾は中国の王朝文化を そのまま凝縮したような美しさ。 随所に龍の彫刻が多用されていて、「龍宮」との異称をあります。 また龍以外にも石獅、梅花をふんだんに用い、 中国建築の特徴を全面に出した装飾となっています。 これらはなにを物語っているか…。 中国大陸から台湾へ越境して移住した人たちは国民党支持者たちが中心です。 国民党支持者は中国共産党支持者と対立する商業に従事する人たち、 あるいは芸術家や資本家たち、貴族・王族も含まれています。 そういった人たちのなかの専門家が建築したのですから、当然、風水の知識、 陰陽五行による設計思想が細部にわたり、組み込まれています。 ゆえに敷地から建築物まで、あらゆる場に龍のパワーや エレメントのパワーを完全に取り込んでいることでしょう。 さらに…このホテルの地下には地下道があるいわれています。 その公にはされていない地下道は円山大飯店が政治色の強いホテルであり、 過去の歴史において常に大陸との緊張関係にあった 国民党と中華民国のさまざまな体制の危機に備えた設備だとおもわれます。 全長180mの地下道は蒋介石総統時代に建設され、 1963年の改築の際には東西2本の地下道が設けられ、滑り台も設置されていました。 地下道はホテルから剣潭公園と北安公園に連絡していますが、 現在一般公開はされていません。 建設後しばらくは台湾の迎賓館として利用されていて、地下道は国家迎賓館としての設備、 背景と言う面が強いと言えるでしょう。 そんな中国という巨大な人口と領土を持つ多民族国家の歴史のなかから 生まれたホテルである円山大飯店。 いまや台北はアジアにおける経済と産業の最先端都市のひとつであり、 世界中から訪れるエグゼクティブ需要に対応する ウエスティンやオークラなど数多の外資系高級ホテルが市内には林立しています。 そんな台北であっても円山大飯店の存在は格別で、だれもが台北に訪れれば、 一度はその圧倒的な姿を見ることになります。 まさに台湾の国家的象徴ともいえる建築物なのです。 その国家的象徴であるホテルが建つエリアは、そもそも大日本帝国による植民地時代は 台湾神宮が鎮座していた場所であり、 その背後には新投北温泉というラジウム温泉として有名な名湯、 さらに台北の繁栄を支えているボルテックス、陽明山が控えています。 このロケーションをみても、円山大飯店の建つエリアが相当のエネルギーボルテックスだ ということがわかります。 七年前に私が台北を訪れたときには、陽明山に登ってハイキングをして、 さらに陽明山温泉にも入り、その猛烈なアースパワーを実感しました。 そして今回は後でまた詳しく書きますが、世界的なラジウム温泉地である 新投北温泉にも入ってきました。 つまり、円山大飯店も今はなき台湾神宮も、 台北のもっとも重要なエネルギーボルテックスに建てられたということになります。 そもそも台北市自体が綿密に計算されてつくられた 一大風水都市であることも忘れてはなりません。 その最重要スポットのひとつが剣潭山から陽明山にかけてのエリアなのです。 つまり龍脈が陽明山を起点にして台北市を貫くように走っていて、 台北市全域にそのドラゴンのパワーを放出しているのです。 なので、このホテルに滞在しているだけで パワーが全身に満ちてくる…ということになるわけです。 真の権力者というのは、ほんとうにこういうシステムを上手に 自らのために配置するのです。 さらにおもしろいことに気づいたのですが、 原稿を書きながら気付いたのですが、もともと台湾神宮が鎮座していた 剣潭山に建つ圓山大飯店…日本語表記だと円山大飯店の「円山」と 札幌の北海道神宮が鎮座する円山公園の「円山」はまったく同じ字面なのです…。 なんで? どうして!! これは私の直感なのですが、円山大飯店と台湾神宮のあった剣潭山は、 台湾原住民におけるアイヌにとっての「インカルシベ」のような山だったのでは…。 そう…インカルシペとはアイヌ語で、「いつもそこへ登って、敵を見張ったり、 物見をしたり、行き先の見当をつけたりする所」という意味であり、 「インカルシペ」はアイヌにとっては「神山」でもあったわけで。 とうことは、剣潭山は台湾のネイティブの人たちにとっての「インカルシペ」で 「神山」だったとも推理できます…。 やはり神宮を建立する際に、日本の呪術師は台北最高の聖地、 エネルギーボルテックスを選定したのでしょう。 さらに視野をひろげるなら、アイヌの人々の源流は、 台湾の原住民とつながる可能性すらある…ということになります。 まさに「円山」~「インカルシペ」つながりで…。 次回はその台湾原住民についての旅を書きます。