LE GRAND BLEU by カーサロータス

たんたんの ストレンジャー ザン パラダイス 35

たんたんの 【ストレンジャー ザン パラダイス  ~ 聖地をめぐるとても個人的な記憶 ~ Vol.35 太秦、七条 京都異界異聞譚 hq6bvpd7 スピリチュアルな世界にあたまのてっぺんからあしのつまさきまでどっぶり 浸かって13年。その間に訪れた、記憶に残っている無数の聖地での体験を かなりいいかげんな旅の記憶でつづったエッセイ。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - これから書く記事は五月下旬から京都でおこなったワークの際に 体験したできごとです。 すでにブログに書いた流れを再構成して新たに書き下ろしています。 ブログでは書くことのなかった わたしの体験とその体験を通して感じたこと、 受け取ったことを新たに書き加えていきます。 まず、なぜ数か月連載していた台湾の記事から京都へつながるのか…。 疑問をもつ方も多いでしょう。 台湾…中華民国と現在の東京と京都を中心とした日本は とても似た国家のかたちをしています。 その理由はすでに理解されている方も多いかとおもいますが 中央の権力者層がともに 中国大陸から戦いに敗れて逃げてきた人々により 運営されているからです。 これはとても重要なことです。 日本はそれが2000年前近くにおきました。 台湾は19世紀からはじまり、 第二次世界大戦により決定的になりました。 つまり、蒋介石率いる国民党が毛沢東率いる中国共産党に負けて 台湾に大挙して亡命して建国されたのが台湾…中華民国なのです。 まるで日本と同じ流れで生まれている… ゆえにわたしたち日本人は台湾を訪れると まるで故郷にもどったような安心感を感じるのです。 一方、台湾の人々も日本と日本人に同様の 共感、安心感を感じるのでしょう。 そういうわけで台湾の旅から 一気に京都へと物語はつながるのです。 京都。 わたしにとっては、まるでふるさとのような場所であり 魂の暗黒世界がすべての町の隅々に、路地の片隅に つながっているようなところ。 そう…わたしにとって、京都という場所は 『今生の人生の目的、役割、テーマ』に深くつながる都市なのです。 すでに京都に滞在して仕事をしはじめて、5年ほどたちます。 当初はいつも決まった場所を借りて仕事をしていたのですが おととしからその場所がなくなってしまい、 以来、毎回、いろいろな場所で仕事をさせていただいています。 当初、毎年借りていたマンションは上京区河原町今出川の京都御所近く。 歩いていける場所には下鴨神社、 そしてわたしにとっては鬼門のような神社である 吉田神社があるところでした。 その後、河原町今出川のマンションから牛若丸こと 源義経が生まれた北区紫竹牛若へ移動。 それも義経の生家があったといわれる通りに面した 古い町家。 牛若丸こと源義経とのご縁は、 出雲の鰐淵寺とお国を介してつながるもの…。 時代と場所を超越するかたちで わたしの魂と血のカルマは京都、平安京と切っても切れないつながりに なっているのです。 また昨年借りたマンションは、 京都府京都市下京区仏光寺通に面したマンションで 目の前が生家跡の菅大臣神社でした。 わたしはなぜか幼いころより 菅原道真公にゆかりのある場所の近くに住むことが多かったり 出かけた先に菅原神社があることが多かったので とてもご縁の深い方だと感じていたのですが、 昨年、滞在するマンションに到着したときはとても驚きました。 そして、今回はJR京都駅から徒歩数分のところにあるマンションを借りました。 このマンションはいま世界中で急速に広まっている AIR B&Bでみつけた物件でした。 いつもの不動産屋を通したマンスリーマンションではなく、 一般人のオーナーが持っている空き室であり それも七条という京都駅近隣の比較的ビジネス系のビルがあつまる 京都のもつ独特の古い歴史的地層から すこし離れた場所だとおもっていたので 今回はとくに因縁めいた場所ではなさそうだな…と感じていました。 しかし、その考えはまったくの楽観的発想にすぎなかったことを 部屋に到着した直後に思い知らされました。 その出来事とはとてもディープで、 意識が混乱するようなこと。 「意識が混乱するような出来事」は都内から京都へ到着した夜に起きました。 しかし、それでもその「意識が混乱するような出来事」だけだったのなら、 わたしは単なるアクシデントで じぶんのインナーセルフのメッセージを伝えるだけのものだったのだ… と納得していたはずでした。 ところが昨日、東京と福岡から送られてきたたくさんの荷物を荷ほどきして 鉱物術講座の準備をはじめているなかでさらに 強烈な「濃密な出来事」が起きてしまったのです…。 その「濃密な出来事」が起きてから、わたしの意識の奥底から 「ダークナイト」というキーワードが浮上してきました。 そのキーワードを受け取って、わたしは深くうなづいてしまったのです。 まず京都到着初日の夜に起きた「濃密な出来事」から書き始めようとおもいます。 わたしは東京と福岡に滞在中は週に2~3回ほどフィットネスクラブヘ通っています。 フィットネスクラブにはだいたいサウナがあります。 このサウナがわたしのような仕事をする者にとってはとても重要で 高温による圧力を身体にかけることで一気にネガティブなエネルギーを 開放することができるのです。 しかし京都などの年に一回程度、仕事で訪れている場所では フィットネスクラブには行けないので、外を走ったり サウナに頻繁にでかけることでコンディションを整えています。 京都市内には良質な地下水をくみ上げた銭湯があり、その銭湯には かならずサウナもあるのでとても助かるのですが、 今回のエリアでは深夜まで営業している銭湯がないので… (22時半に入浴が締め切られてしまう古い銭湯があり、その銭湯の付近を歩いていたことで 今回のダークナイトのエネルギーが降りてきてしまったのですが、その話はまた後程…) 京都に到着した日の夜遅く、数日前から体調があまりよくない状態だったわたしは かなり疲労困憊していました。 このまま眠っても疲れは取れないだろう… そうおもったわたしはマンションから徒歩5分ほどの 京都駅近くにある24時間営業のサウナと銭湯が同居しているビルへ でかけることにしました。 そのサウナと銭湯がはいっているビルは 外観はまあまあモダンな雰囲気の10階建てくらいの建物。 なのでわたしはなにも疑うことなくエレベーターに乗りました。 すると一瞬で全身の毛穴が閉じ、インナーセルフが防御態勢に入るのがわかりました。 わたしはエンパス体質ゆえ、ほんとうに「ヤバイ」場所に入ると まず身体反応が強く起こってしまうのです。 全身が重くなり、その空間に漂っているさまざまなネガティブな想念が けっしてよい匂いとはいえない、たくさんの想念が放つ不快な匂いとともに 鼻孔から肺に入り込んできます。 銭湯のある階に到着して受付のあるフロアに入ると さらに「ヤバイ」雰囲気は強くなっていきます。 受付には20代後半とみられる女性が顔半分をマスクで隠し、 スマホをいじりながらわたしの対応をしていました。 目はずっとスマホをみつつげている受付の女性に浴場に石鹸、シャンプーの類が ないことを確認して、貸タオル類、石鹸、シャンプー、そして入浴料を払い終えると わたしはいよいよ脱衣所へ。 受付の天井の板はところどころはげ落ちていて、床はかなり汚かったので けっして脱衣所も清潔ではない…とおもっていたのですが その予想以上に脱衣所は雑然としていて、若い男性たちから中年くらいの男性たちが 何人も裸の状態でベンチにすわり、たばこをふかしていました。 脱衣所がたばこの煙でもうもうとしているというのは今回はじめて体験しました。 すでにその時点でこの浴場はかなり「ヤバイ」…ということが色濃くなっていました。 どうヤバイのか…というと、これは過去にもその手のサウナに 知らずに入ってしまったことがあるのですが… 知っているひとはもうここで「ああ…そういうところね」と合点がいっているとおもいます。 そう…ここは、男のひとが好きな男のひとたちが出会いを求めて集う場… いわゆる「ハッテン場」だったのです。 しかし、ここではまだわたしは「ひょっとしたら」…というまだ断定までいっていませんでした。 その断定する状況を目にすることになるのは、当然、浴場とサウナでした。 その異様な雰囲気の脱衣所の上のフロアに浴場はありました。 脱衣所から非常階段のような殺風景な階段をあがり、浴場へはいったわたしは そこで見知らぬ男性同士が独特のアイコンタクトでお互いに 行きずりの愛を交歓しあう場であることを確認したのです。 わたしはべつに同性愛に対して差別的な意識はまったくないし、 ゲイカルチャーのもつ繊細さや愛の多様性も理解しているつもりです。 ただ公衆浴場でたくさんの男性同士が いわゆる「出会い」をみつけている現場のエネルギーは 相当強烈で独特のバイブレーションがあるので なかなかなじめないという感覚を感じました。 そして、そのときは、「たまたま、非日常的な場」に遭遇してしまった…と いう感覚をうけとり、 そのできごとのほんとうの意味まで理解するには至りませんでした。 しかし、翌日わたしが遭遇したできごとによって、 この前日の出来事が「前兆」だったことに気づいたのです。 明けて木曜日は、大量に届いた荷物の荷ほどきをして、 仕事の準備をする日でした。 午前中から3つのスーツケースと段ボール1箱から 大量のクリスタルやワークショップでつかう道具などを すべて配置していきました。 午後2時過ぎころ、遅めのランチをとるついでに、近隣の銭湯探しもかねて 七条から五条にかけて鴨川沿いのエリアを歩くことにしました。 七条の高瀬川沿いの細い路地に入り歩いていくと あたりは急に迷路のような地区は入りました。 ほどなく身体のなかを妙に重い気のエネルギーが矢継ぎ早に流れこんできて、 身体の奥から悪寒のようないやな反応が全身に広がってきました。 先ほども書いたように、わたしは「ヤバイ」と感じる場所に入ると まず身体反応が起こるのです。 逆に身体反応が先にでてしまう場所というのは、 相当ネガティブな歴史をもつ場所であるともいえるのです。 その地区には明治以前からの古いけれども 妙に細かい細工が施された京都ならではの町屋よりも豪華な造りの いわゆる料亭やお茶屋さんとして営業してきた 伝統的日本家屋がびっしりと立ち並んでいました。 しかし、どういうわけかその半分近くはもう使われていない廃墟化した建物でした。 またその一体の不可思議にタイムスリップしたような空間をさらに濃密にしているのが 和洋折衷の大正モダン的なスタイルの造りをした家屋の存在でした。 その時点ではその地区がどのような歴史を歩んできた場所なのかということは 知らなかったわけですが すぐにわたしはここが「遊郭」であったろうと感じ取りました。 そして、わたしが感じ取っていた異様なほどの重い気のエネルギーは、 けっして女性としてのあたりまえの幸福とは縁のなかったたくさんの 遊郭で一生を過ごした遊女たちのさびしく、 満たされない念が堆積したエネルギーの振動だったのです。 どこの路地を歩いても、どこも「出口のない閉塞感」と 「永遠に満たされることのない巨大な欠乏感と怒り、悲しみ」が べったりと張り付くように堆積していました。 そんな高瀬川と鴨川に挟まれた七条と五条の間の地区に 一か所だけ不思議なほど異なるエネルギーの渦が立ち上がっている一角がありました。 そこはなんと光源氏のモデルであったといわれている 左大臣 源融(みなもとのとおる)が住んでいた河原院跡だったのです。 源融とは嵯峨天皇の皇子であり、源氏物語の光源氏のモデルと言われる人物で、 彼が摂政 藤原基経の台頭により隠棲した邸第がこの「河原院」だと言われているのです。 「河原院」はこの史跡のあるあたりから西へ柳馬場通、南北・五条以南正面通あたりまでの 大邸宅で、史跡に残されているこの榎の大樹はこの邸内にあった森の名残と 伝えられているそうです。 さて、ここでわたしのブログを欠かさず読んでくださっている読者の方なら 気づいたと方も多いかとおもいますが、 ことしに入ってからわたしは急に「源氏物語」を読み返したい衝動に駆られて 現代翻訳本をいくつかと、漫画化されたものを同時に読んでいました。 どうしても源氏が生きた時代の平安京の生々しさを実感したかったのです。 つまり…今回、わたしが意図せずして遭遇した このエリアとの出会いにつながる伏線がすでに今年に入ってすぐに はじまっていたわけです。 では、光源氏が暮らしていたエリアはいったいどんな歴史をもつ場所なのか…。 さっそくわたしはマンションに戻るとインターネットでたくさんの情報を収集し 確認しました。 すると…わたしが感じたまま、あるいはそれ以上の濃密で悲しみ、 欠乏感に満ちた場所であることが判明したのです。 このエリアは、一説によると豊臣秀吉の時代に秀吉の許可のもと、 遊郭としてはじまったともいわれ、七条新地と呼ばれ、 さらに戦後の売春防止法施行後は表向き料理屋や旅館という看板で 遊郭としてにぎわってきた五条楽園という地区名で知られてきた かなり広大な歓楽街だったエリアなのです。 この五条楽園が完全にその街の灯を消したのはなんと2010年。 つまり豊臣秀吉の時代から21世紀初頭のいままで、ずっとここは いわゆる「遊郭」として実際にお客さんたちが店に出入りしていたのです。 京都の花街といえば京都には上七軒、祇園甲部、祇園東、嶋原、先斗町、宮川町の 6つの花街があり、これらを総称して京都の六花街と呼ばれていますが、 これは表の華やかな顔で、一方ではけっして大っぴらには語られない、 このような遊郭もいくつも存在していたのです。 そして、無数の男女…貴族から町人までがその遊郭でさまざまな情愛を結び、 そのほとんどが満たされない悲しみや怒りといった女性たちの情念が 京都の霊的な磁場に積み重なるように塗り重ねられていったのでしょう。 わたしがおもうに、その情愛の悲しみ、怒りといった感情こそが 平安京の昔からずっと京都の霊的な方向性を決定づけてきた 重要なエネルギーではないか…とかなり以前から感じ取っていたのです。 そして、それらの無数の情念のエネルギーはわたしの京都での過去の さまざまな人生において、とても深いつながりをもつものだともじつは理解していました。 今回、意図せずして、このエリアのすぐ近隣に仕事場を借りたのは もはや偶然であるはずがなく、わたしの京都での今まで仕事のひとつのプロセスが これでクリアされるのではないか…と感じました。 次回はさらにひきつづきこの七条新地~五条楽園で受け取った たくさんのインスピレーションについて書いていきます。 つづく r0lxg1yj