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たんたんの ストレンジャー ザン パラダイス 36

たんたんの

【ストレンジャー ザン パラダイス 


~ 聖地をめぐるとても個人的な記憶 ~ Vol.36

太秦、七条 京都異界異聞譚 2

gojo

スピリチュアルな世界にあたまのてっぺんからあしのつまさきまでどっぶり
浸かって13年。その間に訪れた、記憶に残っている無数の聖地での体験を
かなりいいかげんな旅の記憶でつづったエッセイ。

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前回からの続きです。
※ ストレンジャー ザン パラダイス、バックナンバーはこちらへ

都内から京都に到着した水曜の夜、
マンションの近くにあるサウナのビルのなかにある銭湯へでかけたわたしは
そこがいわゆる「ハッテンバ」であることに気づきました。

数人の男性がなぜか椅子にただ座り、たばこを吸い続けている
脱衣所から階段をあがって上の階にある浴場へはいったわたしは
そこで見知らぬ男性同士が独特のアイコンタクトでお互いに
行きずりの愛を交歓しあう場であることを
確認したわけです。

わたしはべつに同性愛に対して差別的な意識はまったくないし、
ゲイカルチャーのもつ繊細さや愛の多様性も理解しているつもりです。

ただ公衆浴場でたくさんの男性同士が
いわゆる「出会い」をみつけている現場のエネルギーは
相当強烈で濃厚な独特のバイブレーションがあるので
なかなかなじめないという感覚を感じました。

そして、そのときは、「たまたま、非日常的な場」に遭遇してしまった…と
いう感覚をうけとり、そのできごとのほんとうに意味まで
理解するには至りませんでした。

しかし、翌日わたしが遭遇したできごとによって、
この前日の出来事が「前兆」だったことに気づいたのです。

明けて木曜日は、大量に届いた荷物の荷ほどきをして、
仕事の準備をする日でした。

午前中から3つのスーツケースと段ボール1箱から
大量のクリスタルやワークショップでつかう道具などを
すべて配置していきました。

午後2時過ぎころ、遅めのランチをとるついでに、
近隣の銭湯探しもかねて
七条から五条にかけて鴨川沿いのエリアを歩くことにしました。

七条から高瀬川沿いの細い路地へとすすんでいくと
あたりは急に迷路のような空間になっていきました。
ほどなく身体のなかを妙に重い気のエネルギーが矢継ぎ早に流れこんできて、
身体の奥から悪寒のようないやな反応が全身に広がってきました。

前回も書いたように、わたしは「ヤバイ」と感じる場所に入ると
まず身体反応が起こるのです。

逆に身体反応が先にでてしまう場所というのは、
相当ネガティブな歴史をもつ場所であるともいえるのです。

その地区には明治以前からの古いけれども
妙に細かい細工が施された京都ならではの町屋的ではない
洋風のエッセンスを散りばめた豪華な造りの家屋が
建ち並んでいました。

いわゆる料亭やお茶屋さん、戦前のカフェーとして営業してきた
家屋がびっしりと立ち並んでいました。
しかし、どういうわけかその半分近くは
もう使われていない廃墟化した建物でした。

またその一体の不可思議にタイムスリップしたような空間を
さらに濃密にしているのが色とりどりのタイルで外壁を装飾した
和洋折衷の大正モダン的なスタイルの造りをした家屋の存在でした。
その時点ではその地区がどのような歴史を歩んできた場所なのか
ということは知らなかったわけですが
すぐにわたしはここが広大な「遊郭」であったろうと感じ取りました。

そして、わたしが感じ取っていた異様なほどの重い気のエネルギーは、
けっして女性としてのあたりまえの幸福とは縁のなかったたくさんの
遊郭で一生を過ごした遊女たちのさびしく、
満たされない念が堆積したエネルギーの振動だったのです。

どこの路地を歩いても、どこも「出口のない閉塞感」と
「永遠に満たされることのない巨大な欠乏感と怒り、悲しみ」が
べったりと張り付くように堆積していました。

そんな高瀬川と鴨川に挟まれた七条と五条の間の地区に
一か所だけ不思議なほど異なるエネルギーの渦が立ち上がっている一角がありました。
そこはなんと光源氏のモデルであったといわれている
左大臣 源融(みなもとのとおる)が住んでいた河原院跡だったのです。

源融とは嵯峨天皇の皇子であり、
源氏物語の光源氏のモデルと言われる人物で、
彼が摂政 藤原基経の台頭により隠棲した邸第が
この「河原院」だと言われているのです。

「河原院」はこの史跡のあるあたりから
西へ柳馬場通、南北・五条以南正面通あたりまでの大邸宅で、
史跡に残されているこの榎の大樹は
この邸内にあった森の名残と伝えられているそうです。

今年の頭からわたしはなぜか急に「源氏物語」を読み返したい衝動に駆られて
現代翻訳本をいくつかと、漫画化されたものを同時に読んでいました。

どうしても源氏が生きた時代の平安京の生々しさを実感したかったのです。

つまり…今回、わたしが意図せずして遭遇した
このエリアとの出会いにつながる伏線が
すでに今年に入ってすぐにはじまっていたわけです。

では偶然借りたマンションのエリアに残れていた光源氏のモデルである源融が
暮らしていたのエリアはいったいどんな歴史をもつ場所なのか…。

さっそくわたしはマンションに戻ると
インターネットでたくさんの情報を収集し確認しました。
すると…わたしが感じたまま、
あるいはそれ以上の濃密で悲しみ、
欠乏感に満ちた場所であることが判明したのです。

このエリアは、一説によると豊臣秀吉の時代に
秀吉の許可のもと、遊郭としてはじまったともいわれ
七条新地と呼ばれ、さらに戦後の売春防止法施行後は
表向き料理屋や旅館という看板で
遊郭としてにぎわってきた五条楽園という地区名で知られてきた
かなり広大な歓楽街だったエリアだったのです。

この五条楽園が完全にその街の灯を消したのはなんと2010年。
つまり豊臣秀吉の時代から21世紀初頭のいままで、ずっとここは
いわゆる「遊郭」として実際にお客さんたちが店に出入りしていたのです。

京都の花街といえば京都には上七軒、祇園甲部、
祇園東、嶋原、先斗町、宮川町の6つの花街があり、
これらを総称して京都の六花街と呼ばれていますが、
これは表の華やかに顔で一方ではけっして大っぴらには語られない、
このような遊郭もいくつも存在していたのです。

では五条楽園は、どのような遊郭だったのか。
少しその歴史を紐解いてみましょう。

五条楽園(五條楽園と表記される場合も有)はいわゆる旧遊郭・旧赤線地帯。

江戸時代中期から茶屋や遊郭が集まりはじめたと言われてます。

大正時代には五条橋下と七条新地をまとめて一つの大遊郭街を形成していたと
言われ、戦前までは貸席と呼ばれたお茶屋が二百五十軒あり、
娼妓が千人もいたと言われています。

一見、お茶屋・置屋・歌舞練場のある祇園や宮川町などの花街と
同じように見えますが、実際は大阪の飛田や松島など「新地」と呼ばれる
遊郭が集まる街でした。

「でした」と過去形になっているのは、実質的に営業している遊郭はほぼ存在しないからです。

遊郭の灯りが消えたのはついこの間のこと。

じつは2010年10月、11月の2回にわたり京都府警による摘発が入り、
売春防止法違反容疑で元締めや経営者が
逮捕されたのを機に一斉休業となりました。

その後、お茶屋の廃業や建物の取り壊しが相次ぎ
かつて楽園だった場所は衰退の一途をたどり、とうとう消え去ったのです。

五条楽園はお茶屋と置屋が存在し、
お茶屋にお客が入ると置屋に連絡がいき、
置屋から女性が派遣されるというシステムだったようです。

これは現在の祇園などの花街と同様ですがお客に提供するサービスが
花街とはまったく異なるサービスであったということ。

つまり、男と女の一瞬の情交を提供する街であったということ。

無数の男女…江戸時代には昭和、そして平成までの数百年の間、
毎夜、貴族から武士、そして町人、旅人までがこの街のどこかの部屋を訪れ、
つかの間の情愛を結び、男たちは一瞬の夢に浸り、
多くの女たちは自らの不幸に対する呪いの言葉をただ噛み締め、飲み込んでいったのでしょう。

そんな歴史と街のクレバスに消えていった女性たちの漆黒の情念は京都の霊的磁場に
積み重なるように塗り重ねられていったのです。

わたしがおもうに、その情愛の悲しみ、怒りといった感情こそが
平安京の昔からずっと京都の霊的な方向性を決定づけてきた
重要なエネルギーではないか…と
かなり以前から感じ取っていたのですが、
実際に最近まで遊郭として営業していた五条楽園に実際に身を置くことで、
それらの無数の情念のエネルギーが
わたしの京都での過去のさまざまな人生において
とても深いつながりをもつものだということを
実感として理解できたのは、
まさに偶然の必然と言わざるを得ない体験でした。

つまり、意図せずして、このエリアのすぐ近隣に仕事場を借りたのは
もはや偶然であるはずがなく
わたしの京都での今まで仕事のひとつのプロセスが
これでクリアされるのではないか…とそのとき予感したのです。

つづく

 

yukaku