~聖地をめぐるとても個人的な記憶 ~ Vol.25 海を越えてやってきた呉の民の源流へ ~3~ スピリチュアルな世界にあたまのてっぺんからあしのつまさきまでどっぶり 浸かって13年。その間に訪れた、記憶に残っている無数の聖地での体験を かなりいいかげんな旅の記憶でつづったエッセイ。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 前回からの続きです。 反日運動の嵐が吹き荒れた直後の蘇州へ出かけた、私とひとみ、
そして小学校4年のれお。 何事もなければ、それなりに日本人観光客もたくさんいるはずの蘇州を
私たちファミリーは20代半ばと思われる若い地元の女性ツアーガイド、
李さんの案内で名所旧跡めぐりを始めました。 はじめて訪れた蘇州は、とても不思議なところでした。 市街地には1000年以上前から変わらぬ景色をとどめる運河や庭園が
あちこちにあるにも関わらず、道端にはメルセデスやBMW、レクサスなどの
先進国のラグジュアリーカーがあちこちに路上駐車されていました。 しかし、不思議なのは、その道は未舗装の状態なのです。
つまり、あまりに急激な経済成長の速度に実体のある社会インフラの整備が
まったく追いついていないのです。
これはそのまま庶民と富裕層の圧倒的な経済的格差を表している
光景でもありました。 そんなことを感じながら、私たちはまず世界遺産である庭園めぐりを始めました。 蘇州をめぐる一日コースは蘇州の世界遺産「留園」「拙政園」、
中国のピサの斜塔と呼ばれている「虎丘の雲岩寺塔」。
そして唐代の詩人張継(ちょうけい)が詠んだ漢詩
「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」の石碑で知られる寒山寺。
この古寺は唐代の詩人張継(ちょうけい)が詠んだ漢詩
「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」の石碑があることで知られる古寺。
寒山(かんざん)と拾得(じっとく)、二人の仲の良い行者の話で
有名なところ…、そして、呉の時代の建造物としては雲巌 寺の塔、
紀元前6世紀から5世紀にかけて(春秋時代)この地を治めた
呉の6代目の王闔閭がここを都として整備を行う中でつくりはじめた
大運河の「京杭大運河」などでした。
この「京杭大運河」は、中国の北京から杭州までを結ぶ、
総延長2500キロメートルに及ぶ大運河です。 また呉・越二国の勢力争いのなかでは、「臥薪嘗胆」や「呉越同舟」
といった日本でもよく使われる有名な四文字熟語の故事が生まれ、
空海も訪れています。
ちなみに空海が当時の中国である唐へ渡ったのは、延暦23年(804)5月12日、
第十六次遣唐使一行の一員として、現在の大阪の「難波ノ津」から
四船(よつのふね)に乗船し出航したといわれています。 そして、最終的に現在の福岡県の大宰府でしばらく滞留し、その後、
第十六次遣唐使船団として再び海へ。
現在の福岡市の「那ノ津」を出た船団は、左舷に能古島、
右舷に志賀島を見ながら再び玄界灘へ出航し、平戸、五島列島を経て
中国大陸へと向かったのです。 その後の航海は艱難を極め、水や食糧を嵐のなかで多くを失い、
空腹や疲労で病に倒れる者もいたといいます。
しかし空海は泰然自若としていたと伝えれています。なにしろ空海には
山林修行で鍛えた自然の猛威や飢餓状態に耐える強靭な体力と精神力があり、
海上の荒れ狂う嵐の中でも求聞持法を厳修し、不順に転じた
宇宙の「五大」を順調に向わせ、風を鎮め波を治めていたことは
想像に容易いでしょう。 そして一行はやっとの思いで台湾海峡西方の唐土に漂着。
赤岸鎮、今の福建省霞浦県福寧湾の内湾奥にある赤岸村の浅瀬であったと
いわれています。 その後、空海一行は杭州を発ち「古運河」を約170㎞先の蘇州へ向かった
といわれています。蘇州は往古から水の都であり、紀元前6世紀から
5世紀にかけて(春秋時代)この地を治めた呉の6代目の王闔閭が
ここを都として整備を行い、隋代には煬帝によって「京杭大運河」が築かれ
「東洋のベニス」とも呼ばれるほどの水の都となったのです。
空海らが見たのは水の都の美しい蘇州だったことは間違いないでしょう。 話はだいぶ本筋から逸れてしまいましたが空海も訪れた、古都・蘇州は
私にとっても、今生で初めて訪れる場所でした。
しかし、というか、やはり歩き始めると、とても懐かしい、
故郷に帰ってきたような既視感がしだいに意識の奥底から
あたまをもたげてきました。 蘇州を代表する名所、世界遺産でもある「留園」と「拙政園」は、
明の嘉靖年間 (1522~66) には徐時泰の東園だった庭園なので
比較的あたらしい建造物だったのですが、それでもその庭園が醸し出す
情緒ある雰囲気は、過去生退行で何回となく体験してきた古い時代の匂い、
スタイルなどがとても重なるところがここかしこにあったので、
とにかく「ああぁぁ、ここはよく知っている場所だ…」とリアルに感じていました。 当然、庭園の美しさは素晴らしいものでした。
とくに「拙政園」は広大な面積のなかにさまざまな風景が形作られていて、
四季を通して見てみたいとおもいました。
あいにく蓮は花咲く季節は完全に終わっていたので、
できれば夏に来てみたいものです。ただ、とにかく人が多すぎて、
庭園の風情を堪能する…という状態ではなかったのがほんとうに残念でした。 いっぽう、呉の時代の建造物としては雲巌寺の塔、運河に関しては、
完全に過去生のなかで垣間見たビジョンそのままでした。
また名物料理の松鼠桂魚(桂魚の丸揚げ甘酢あんかけ)は、
じつは幼少時から好きな料理のひとつで、ひさしぶりに懐かしい味を
堪能することができました。
つまり、過去生での好物の記憶を幼少時から無意識に受け取っていたのだ
ということがここではっきりしたのです。 …しかし今回の記事の本題は旅の感想を書くことではなく、
この蘇州と言う場所が私にとって、そして日本の国の歴史にとって
とても大きな意味を持つ場所だということをお伝えすることなのです。 旅から帰ってきて、私は蘇州、そして紀元前の中国で
この蘇州という場所がどういう場所なのか、ということを調べました。
とても衝撃的な情報がでてきました。 というのも私のブログを長くご覧になられている方なら
わかることなのですが、私はいままでたびたび古代中国から日本へ渡ってきた
秦氏や呉(春秋時代・ 紀元前473年)という存在のことについて
書いてきました。とくに私の陰陽師の過去生で秦氏は特別な存在で
あることを書いてきました。 秦氏は陰陽道を日本に持ち込んだ中国人の一人であり、
とくに平安京における陰陽師の中心人物である賀茂氏、
そして安倍氏の源流となる存在であるということを
さまざまな流れのなかで確認させられてきたことを書いてきました。
たとえば伏見の稲荷信仰はその源は秦氏です。 その秦氏のルーツが現在の蘇州で紀元前に存在した
呉から生まれた氏族だったのです。 つづく。