~ 聖地をめぐるとても個人的な記憶 ~ Vol.28 台湾 縄文センチメンタルジャーニー 2 スピリチュアルな世界にあたまのてっぺんからあしのつまさきまでどっぶり 浸かって13年。その間に訪れた、記憶に残っている無数の聖地での体験を かなりいいかげんな旅の記憶でつづったエッセイ。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 前回からの続きです。 ずいぶん前回の記事から時間が経ってしまいました。 先月はちょうど糸島でのサバトに重なってしまったのでメルマガをお休みさせていただきました。そんなことをいっていたら、もう11月も終わり近づき、2015もそろそろフィナーレ。今年は個人的にはいろいろありました。 まあ、毎年いろいろあるので、例年通りなのですが、千駄木のヴィンテージマンション(笑)から駒込への引っ越しからはじまって、北海道・羊蹄山での体験と積丹半島でのケルトの水の女神とのつながりのスタート、あたらしいワークショップ『ライフパーパスデザインワークショップ』開始、京都での懐かしい記憶の再生…そして壱岐島での神功皇后との邂逅。そして神功皇后からはじまった女神との対話でとうとうイシス、イナンナ、シリウスにまで旅がつづいています。 目に見える世界も見えない世界も「旅・ジャーニー」だとつくづく感じるこの頃ですね。 地球はどんどん目覚める方向性で活性化しています。 その反動で変化を拒むひとたちはもう断末魔のいきおいで抵抗していますがたぶんそれも2016まででしょう…。本格的に地球のめざめに人類がつながりはじめるのは2017からですね。それまで精一杯生きていきましょう。 いつ死んじゃうかわかんないし…。 さて、話を台湾ジャー二―に戻します。
わたしにとってのこの台湾旅行の最大のテーマは、台湾の先住民の情報とエネルギーに触れることでした。そのためにふたつのプランをつくりました。
ひとつは台北市にある先住民博物館へいくこと、国立故宮博物館へ行くこと。
もうひとつは先住民に実際に会える場所へ行く。ふたつめの案件はなかなかむずかしいものでした。 ネットで調べても、台北市内で週一で先住民の若者がライブをしているお店があるくらい...。もうひとつは台北市内ではなく、台北から1時間くらい離れた場所にある温泉。その温泉のある地方にいまも暮らしている先住民族のレストランがある、ということで当初はその温泉へ行く予定でしたが、時間的に無理だということがわかり、結果的には先住民博物館のみということになりました。 しかし、九フン(きゅうふん)という『千と千尋の神隠し』の湯屋のある妖怪たちの街のモデルになった場所やベネチア映画祭で金獅子賞を獲得した台湾映画『悲情城市』の舞台になった茶芸館へ行ったことでかなり台湾のエネルギーには触れらことができました。九フンはすでに有名な観光地でツアーで訪れる人が多いので、ご存じの方は多いとおもいますが、その話はまた後程...。 まずは先住民博物館での体験から書きたいと思います。
先住民博物館の名前は「順益台湾原住民博物館」といいます。この博物館はなかなかディープな内容でした。館内は地下一階から地上三階までの四層のフロアに分かれていて、「信仰と祭儀」「人と自然環境」「生活と道具」「服飾と文化」の4つのテーマで展示物が紹介されています。 台湾の原住民は地域によって、細分化されたたくさんの種族がそれぞれの独自の文化をもって暮らしてきました。ヤミ族、パイワン族、ツォウ族など政府が認定している原住民の種族だけでも14民族がいまも台湾各地で中国系の人たちとともに生活しています。また政府が認定していない種族は7~15種族もいるといわれています。このように台湾はもともと多様な種族が共生する亜熱帯の島でした。 彼らを総称する名称としてオーストロネシア語族というものがあります。これは太平洋のさまざまな島、そして北米の西海岸から南米の西海岸を含む広大な環太平洋地域の多様な民族を総称する名称で、台湾の先住民もこのオーストロネシア語族に属します。 このオーストロネシア語族は私が20代の頃から興味を持っていた環太平洋民族、パシフィックアイランダースであり、究極的には日本の縄文人のルーツとなる人たちです。 原日本人である縄文人たちは太平洋やインド洋などのさまざまな地域から舟に乗って太平洋の潮流により日本へと辿りつき、棲み始めた多様な種族であるということがいえます。 つまり、わたしがずっと追いかけている海人族=海神族=安曇族=出雲族のルーツのひとつが台湾原人だということ。ゆえに台湾の原住民も同様で、言い換えれば、台湾の原住民の文化を探究することはそのまま原日本人である縄文人の文化、あるいは生活習慣を知るのと同じだと考えたわけです。なので、「順益台湾原住民博物館」は今回の台湾の旅における私の最大の目的地だったのです。 なにより縄文文明の完成形である邪馬台国、そして邪馬台国から派生した出雲族の具体像を知るためには環太平洋の文明と民族を知ることがもっとも重要だと思ったのです。さらにその環太平洋の文明と民族を知るということは、さらにその奥に存在するレムリア文明を垣間見ることであり、同時にレムリア文明の対極であるアトランティス文明の立ち位置も知ることになると…。 そんな方向性で私が「順益台湾原住民博物館」を観た感想は、想像以上に環太平洋文明、そして、オーストロネシア語族の文明は「女性性」のパワーに溢れていた…「女性性文明」そのものだったということです。台湾の原住民族のなかには男性をリーダーとした部族、女性をリーダーとした部族、両方が共存していたことがわかりました。しかし、どちらも圧倒的に女性性を基盤としていました。 それはどういうことかというと、「あるがまま」「受け身」「自然とともにある」ということです。 もちろん異なる種族同士は敵対関係にある部族も当然あり、完全に交わることは拒否されていたようです。いわゆる楽園、ユートピアとしての幻想は持たないほうがいいでしょう。 古代縄文文明は楽園としての世界ではなく、アミニスムの世界であり、人間が主体となった現在の私たちの世界観からすれば、いわゆる「野蛮な世界」として映ります。 しかし、それは彼らが精霊や森や山の霊と並行して生きてきたということであり、その領分を尊重するということにも通じます。具体的には敵対部落や異種族の首を狩る風習が過去においてあったことがその典型例でしょう。 ウィキからの出典です。 台湾原住民族(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異種族の首を狩る風習がかつてあった。 これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。狭い台湾島内で、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団がそれぞれ全く交流することなくモザイク状に並存し、異なる部族への警戒感が強かったためであるといわれている。 漢民族による台湾への本格的移住が遅れた要因として、この出草の風習を抜きに語ることはできないという説もある。首狩りそのものが「一人前の成人男子」の通過儀礼とされ、あるいは狩った首の数は同族社会集団内で誇示された。ただしこの習慣は、他にもマレー系、南米先住民族の一部などにも見られる。 出草は史料から見る限りでは、弓矢や鉄砲などによって対象者を背後から襲撃した後に、刀で首の切断に及ぶもので、対象と勇敢に格闘を行った末に首を切り取るというケースはあまり見られない。
なお獲得した首は村の一所に集めて飾る。出草は祖先より伝わる神聖な行為と見なされ、「武勇を示すため」や「不吉を祓うため」、もしくは「冤罪を雪ぐため」などのために行われた。したがって、馘首の対象者は必ずしも仇敵とは限らず、馘首の大半は同族同士によるものであり、被害者が漢民族や日本人である方がむしろ少なかったといわれている。日本統治時代初期には、沖縄からの行商の女性たちが山野にて出草の被害者となるケースが多かった。 しかし文化人類的な視点で考えるなら、近代文明を持つ我々は首狩りよりもはるかに残虐で緻密な方法で大量虐殺を異民族や敵対国家に対して繰り返していますよね... つまり戦争です。 このことを考えれば、先住民文明あるいは縄文文明における首狩りや種族間闘争と近代国家における戦争は、いわば人間の意識のダークサイドとして共通する衝動があるということになるでしょう。 しかし、ここで私が感じたのは、先住民族にとっては首狩りは、単純な殺戮と言う側面にとどまらず、魔術的側面が含まれていると思います。それこそが私たちが多くの過去生において、魔術、呪術の暗黒面を体験するための「学び」であったとも理解できるでしょう。