~ 聖地をめぐるとても個人的な記憶 ~ Vol.30 台湾 縄文センチメンタルジャーニー 4 ▲順益台湾原住民博物館 ▲国立故宮博物館 スピリチュアルな世界にあたまのてっぺんからあしのつまさきまでどっぶり 浸かって13年。その間に訪れた、記憶に残っている無数の聖地での体験を かなりいいかげんな旅の記憶でつづったエッセイ。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 前回からの続きです。 わたしが今回の台湾旅行でもっとも重要視していたテーマは 台湾の先住民文明のなかに古代日本の縄文文明の種子をみつけることでした。 そのテーマは台北の「順益台湾原住民博物館」を体験することで ほぼ果たせたと感じたのですが、じつは、そのあと訪れた場所でさらに 台湾がもつ、とても複雑で豊かな環太平洋文明のエネルギーに 触れることになるのですが、そのことについて書き起こすまえに 台湾のもうひとつの顔、あるいは現在の台湾の姿そのものを表す場所を訪れました。 その場所は「国立故宮博物館」。 この博物館の存在は、まさに台湾と中国の複雑な歴史をすべて体現しているようなものなのです。 博物院のある場所は台北市北部、高級住宅街がひろがる士林区。 静かな台北の郊外にひろがる重厚な建築物の内部には 中華民国政府が台湾へと撤退する際に故宮博物院から精選して運び出された 美術品が主に展示されています。 その数合計6万件冊。 なぜ、中国の貴重に文物が台湾に存在するのか…。 それは近代の中国で起こったさまざまなイデオロギー闘争の歴史を すこしでも知っているひとにとっては、とても複雑な気持ちになる理由によるものです。 ウィキの資料を要約すると…、 “この博物院の原点は1924年に北洋軍閥の一人である馮玉祥が溥儀を紫禁城宮殿から退去させ、1925年10月10日に宮殿内で清朝が持っていた美術品などを一般公開したのが始まり。1925年当時の所蔵品点検レポートによると所蔵品総数は117万件を超えており、博物院は古物館、図書館、文献館を設けて各種文物の整理をする一方で、宮殿内に展示室を開設して多様な陳列を行なっていたといいます。 その後、満州に駐留していた日本軍が華北地方に軍を派遣してきたため、蒋介石の国民政府(1948年からは中華民国政府)は博物院の所蔵品を戦火や日本軍から守るべく重要文物を南方へ疎開させ、1933年2月から5月までの間に1万3,427箱と64包に及ぶ所蔵品が上海経由で南京市に運ばれました。国民政府は南京市内に所蔵倉庫を建てて故宮博物院南京分院を設立しましたが、1937年に日本軍が南京に向けて進軍してきたために、所蔵品は再び運び出されて四川省の巴県・峨嵋山・楽山の3カ所に避難。 第二次世界大戦後に、運び出された所蔵品は重慶を経て再び南京・北京に戻されましたが、国共内戦が激化するにつれて中華民国政府の形勢が不利になったため、1948年の秋に中華民国政府は故宮博物院から第一級の所蔵品を精選(2,972箱に及ぶ約3割)して台北へと輸送。台湾に運ばれた中華の至宝は、初め台中県霧峰郷北溝に保管され、故宮の収蔵品の他に中央図書館・中央研究院史語所・中央博物院準備処の所蔵品も収められたのです。 その後、中華民国政府は台北の外双渓に新館を建設し1965年に一般公開しました。 その後国をあげて展示スペースの拡充と倉庫の建設および研究や出版・国際交流活動等ハードソフト両面に力を注ぎ、その収蔵品の価値の高さも相俟ってルーブル・エルミタージュと並び称される博物館となったのです。” つまり台北市の國立故宮博物院は中華文明の神髄ともいえます。 わたしがこの国立故宮博物館で目にしたものは、 先住民民族文明とは対極の圧倒的な技術と感性がつくりあげた 「変化」と「能動性」の男性性の文明でした…。 そのことを端的に表しているのが 国立故宮博物院がルーブル、エルミタージュ、メトロポリタンと共に 世界4大博物館の1つに数えられているということ。 上記の4大博物館に展示されている文物を生み出した文明はすべて、 男性性文明ばかり。 つまり、中華文化、中国大陸文明というのは、 ユーラシア大陸を西から東へ支配した男性性の文明の巨大な支柱であったということを この博物館は伝えているのです。 わたしがこの博物館で体験したバイブレーションは、 先に訪れた「順益台湾原住民博物館」とは対極となる、 先住民民族文明とは対極の圧倒的な科学技術力と合理的知性がつくりあげた 「変化」と「革新」の文明の美と情報でした。 結論から先に言うと、 なにも変わらない文化を数千年つづけてきたオーストロネシア語族から 枝分かれした台湾の原住民は、「変わらない」「変えない」 という霊的文明で自分たちの持っている深遠な精霊と 交わり続ける生活をつづけてきましたわけですが、 一方、中国大陸に数千年という長い歴史のなかで多様な民族がつくりあげてきた 巨大な科学文明は、常に変化し、進化しつづけることで、 周辺のさまざまな民族に多大な影響をあたえつづけ、 世界を変化させつづけてきたのです。 その歴史的必然としてオーストロネシア・縄文文明の一部であった 台湾の先住民文明は、なんの反抗もなんの異議も唱えず、 巨大な男性性文明の歴史の構図のなかに呑み込まれていったのです。 これを支配と被支配というありきたりな視点で捉えてしまうと、 地球の文明の辿ってきた道筋の本質がまったく見えなくなってしまいます。 なぜ、変わらない文明は変わり続けてきた文明に呑み込まれたのか…。 つまりそれは島国日本の縄文文明がさまざまな周辺からの文化的干渉を受けながらも、 オリジナルな文化を生み出した理由にもなるからです。 私が台北の国立故宮博物院を観てまわって、もっとも腑に落ちたのは、 変化し進化しつづける男性性の文明の最大のパワーが文字の力と 複製の技術にあることに気付いたことでした。 この博物院には保管されている膨大な量の美術品、 工芸品、文物資料は60万8985件冊。 3カ月に1回の割合で展示品の入れ替えがありますが、 全ての展示品が入れ替わるわけではないので、 全ての展示品を見るためには、200年余りかかると言われています。 全体の展示物構成は絵画、玉器、書、彫刻と分類別、時代背景とともに 丁寧に紹介されており、中国文明の細部まで観賞することができます。 しかし、一方で全体を通して観賞するならば、 分類されたそれぞれの分野の宝物が時系列で観賞できるので、 美しいさまざまな文物を観ながら、 中国の多様な歴史の流れを一気に体験できるところも大きな魅力といえるでしょう。 中国の芸術、工芸、文芸が擁する圧倒的ともいえるその技術力と表現力は、 まさにプリミティブでオカルティックなパワーを身上とする先住民族の文明を 簡単に呑み込むパワーを持っていることは誰の目から見ても一目瞭然でしょう。 その圧倒的なパワーとはなんなのか…。 そのことについては、また次回…。